こころ社労士事務所の藤井です。
5月も終わりそうな頃ですが、まるで夏が来たんじゃないかと思えるような気温が続いていますね。
特に日中は暑いのでクーラーは必須です!この調子で夏を乗り越えることができるのか…
服装にも悩みます。寒いなら重ね着をすればいいけれど、暑いときは枚数を減らすのにも限度がある。
通気性の良い素材や冷感素材などを上手いこと利用して元気に夏を迎えたいと思います!
その前に梅雨に突入すると思うので、しっかり傘を常備して思わぬところで身体を冷やさないように気を付けます。
さて、今回のブログはそんな暑さに合わせて服装に悩む毎日の中で改めて感じた、“服”にまつわるお話です。
最近お気に入りになった古着屋さんと、そこで考えるようになった「物を受け継ぐ」という感覚について、少し書いてみようと思います。
「重要なお知らせ」
この言葉に胸がざわつくのはわたしだけではないはず。
いい知らせか、悪い知らせか。この一言だけで一瞬でピンッと緊張の糸が張り巡らされます。
今回この言葉に直面したのはついこの前の日曜日の夜。いそいそと寝る準備をしつつなんとなしにInstagramを開いたときのこと。
15分ほど前に投稿された、最近見つけたお気に入りの京都の古着屋さんのアカウントからの発信です。
ざわざわしながらも本文を読んでいきます。
……残念ながら、6月の中頃に閉店されるとのことでした。
閉店の理由は詳しくは語られておらず、ただ、経営不振や大きな病気になったからではなく、前向きに閉店という選択をされたようです。
春が訪れるよりもちょっと前に初めてお店に訪れてから、各シーズンごとにあのお店で2~3着買ってそれらを中心に着まわしていこうと思っていた矢先のことだったので、非常に残念ではあります。
四条通の賑やかさから少しだけ離れた、空気が少し静かになる麩屋町通にあるとあるビルの中にあるヴィンテージ品を取り扱う古着屋さん。
こぢんまりとしたお店の中にはオーナーさんが海外の田舎町を巡って買い付けた、厳選された商品が陳列されています。
古着屋さんの魅力は、自分が生まれる前の時代の服が普通に並んでいることだと思います。
80年代や90年代、もっと古いものもある。その服を、何十年後かの自分が京都で手に取っている。その感覚が最初はただ新鮮でした。
ほんの1mm程度潔癖症なわたしは、誰が着たものかわからない古着なんて絶対無理と思っていたのです。
一方で自分自身が年齢を重ねてきた中で、「物を受け継ぐ」ということを考えるようになりました。
誰かが着て、時間を重ねて、また別の誰かのところへ渡っていく。少し擦れた袖や、褪せた色さえ、その服が生きてきた時間の一部みたいに思えてきます。
日本には付喪神という考え方があります。長い時間を経た道具や物には魂が宿る、という話です。信仰心の薄いわたしはただの昔話や思想の一種だと認識していましたが、古着を見ていると、案外そういう感覚は間違っていないのかもしれないと思うようになりました。
「生きる」のは動物だけではない。
物だって、生きている。
人の歴史をすぐそばで見てきている。
そう思うようになってから、これはどんな人が着ていたんだろう、使っていたんだろうと考えることが増えました。
学生だったのか、働き始めたばかりだったのか。嬉しい日に袖を通したのか、落ち込んだときにも着ていたのか。
物は何も語らないけれど、擦れた生地や色褪せや小さな傷の奥に、その人が過ごした時間が残っている気がします。
そして、その服や物はまた別の場所へ渡っていく。
誰かの人生の続きを、静かに見届けていく。
新品を買うときには感じない、“時間の流れ”が感じられます。
こう考えられるようになって、定期的に通いたいと思うようになったからこそ、時間旅行ができるあの小さな不思議な空間がなくなってしまう寂しさがあります。
街は変わるし、人も変わる。お店だって永遠じゃない。「いつかなくなる」ことはあたりまえだとわかっていてもいざなくなってしまうと寂しいですね。
とは言え、そのような選択をされたオーナーさんを責めるわけでは決してありません。
どのような選択をするのも自由ですし、豊かに暮らしていただきたいです。
さて、閉店までにまだ少し時間があります。
あと一回は行きたいな。
たぶん特別なものを探しに行くわけではありません。
あの空間にもう一度訪れて、服を眺めて、いつもの匂いを吸い込んで帰りたい。
ただそれだけでいい。
京都の街で、その店の灯りが消える日を想像すると、やっぱり少し切ない……。
でも、また京都のどこかで、新たな灯りが灯ることを願っています。
切なさと期待に揺られながら、次の“好き”と出会えることに期待を寄せて。