大阪府茨木市「こころ社労士事務所」の香川昌彦です。私は令和2年1月1日に社労士事務所を開業しました。周囲の方に支えられ、本当にありがたいことです。今日に到るまでには本当に逆境にめげそうなこともありました。
今回は、双極性障害発症から十数年の療養生活を振り返ります。
「十数年をどのように過ごしていたのですか?」と起業してから何人もの人に聞かれました。就労移行支援施設入所がきっかけで社会復帰したことは、大勢の前で話したことはありますが、それに至る詳細な経緯を話したことはほとんどありません。
理由は、あまりにも長くなりすぎるし、あまりにも暗い話だからです。もう一つは記憶に靄がかかっており、正確に年月を思い出せないからです。
ホームページをリニューアルするに当たり、自己棚卸をしていて靄が晴れた記憶があるので、これを機会に言語化したいと思います。ただし、年月、前後関係は記憶違いがあることはご容赦ください。
発症から療養開始まで
30代からメンタルヘルス不全には悩まされていました。それでもなんとか働いていたのですが、社会生活から強制的に断絶されるとある出来事がありました。やってはいけない最悪のことをしたのです。
結果、3日間病院で昏睡状態になりました。主治医の診察を受け、すぐに大学病院の精神科閉鎖病棟に入院することになりました。そこで半年間過ごすことになります。入院中どうやって過ごしていたかはあまり覚えていません。紐状のものの持ち込みが禁止されていたので、マジックテープで止めるタイプの靴を履き、ベルトではなくゴムで締まるタイプのジャージみたいなものを履いていました。ヘッドフォンが紐状なので、音楽を聞くこともできませんでした。スマートフォンも持ち込み禁止。
覚えているのは、妻がほとんど毎日面会に来てくれたことです。それだけが唯一楽しみの時間でした。妻は仕事が終わってから病院で私と面会し、誰もいない家に帰る。本当に辛かったと思います。
4ヶ月目あたりから、週に1回の帰宅許可が出て、それが2回になり、様子も安定しているということで退院しました。
仕事どころか、生きてることが奇跡という状態から療養生活はスタートしたのです。
入院と帰宅と保護猫
退院後の数ヶ月は全く記憶がありません。自宅での話し相手として妻が保護猫を譲り受けたあたりから記憶があります。生後3ヶ月のキジトラでものすごく小さくて驚きました。「子猫の面倒を看る」ことが社会生活再開への一歩目だったのです。
自分で自分の面倒も看られない状態ではありましたが、子猫(ふうちゃんと名付けました)は私がご飯をあげたいとお腹が空くし、トイレをきれいにしてあげないと我慢してしまいます。その世話をすることによって、やっと自分が生きているという実感を持てた気がします。
1年後、2匹目の保護猫(茶トラなので茶助(さすけ)と名付けました)を迎え入れ、さらに猫の世話をする時間が増えました。少しずつ頭も身体も動き始め、洗い物の片付け等の小さな家事はできるようになりました。ほどなく、料理をしたくなって買い物に出るようになりました。やっと外出できるようになったのです。
ただし、気軽に外出できたわけではありません。同じマンションの住人に見られないように様子を伺ってからドアを開けていました。大の大人の男性が昼間になぜ家にいるのか?と思われたくなかったのです。実際には、周囲はそんなこと気にしていないと頭ではわかっていましたが、どうしても心は後ろめたい気持ちで一杯だったのです。
障害年金との出会い
「早く働きたい」と強く思うようになりました。「思い」というより「焦り」という方が正確かもしれません。自分のキャリアもそうですし、このままだと貯金がどんどん減っていき、いずれは底をつくことがわかっていましたから。
しかしながら、仕事のことで主治医に相談したら「就業禁止」を強く言い渡されていました。今はまだ心身の回復に努めなさいと。
いつになったら働けるのか、全く出口が見えませんでした。
転機は突然テレビから飛び込んできました。うつ病で障害年金を受給してなんとか暮らしている方がいるとか、そういうニュースでした。ニュースの詳細は覚えていませんが「自分は受給できるかもしれない」と思ったのです。社労士資格は以前に取得していましたが、精神疾患で障害年金が受給できるという認識はなかったのです。実務経験がないので当たり前なのですが。
主治医に障害年金の話をすると、それがいいかもしれないと意見をいただき、申請の準備をすることになりました。
自分自身の障害年金申請が、家事以外での社会的復帰の第一歩なのです。
障害年金の申請準備は困難を極めました。まず、手順がわからない。厚生労働省のホームページを見ても全くイメージが付きません。年金事務所へ何度か足を運びましたが、当時は外出して会話するだけでヘトヘトになる状態だったので、あまり頭に入ってこないのです。
なんとか半年くらいかかって障害年金を申請しました。4ヶ月後くらいに支給決定が下され、経済的に少しは安堵しました。
ただし、自分が障害者であることを受け入れることはなかなかできませんでした。どこかが動かないわけではなく、一日中塞ぎ込んでいるわけでもありません。心と身体に鉛を背負って暮らしているという感覚はありましたが、「障害者」という言葉は、当時の私には相当重いものでした。
障害者雇用と挫折
それから2年ほど経ち、「もしかしたら、また働けるかも」と思えるくらい病状は回復してきました。けれども主治医の判断は就業禁止のままです。
主治医に内緒で障害者雇用専門サイトにいくつか登録しました。療養前は、世間的にはステータスが高く、給料も高い仕事をしていましたが、そんなものはもう役に立たないとやっと思えるようになってきた時期でした。
元には戻れない、と覚悟を決めたのです。
障害者雇用専門サイトに登録をして応募を続けたものの、ほとんど書類選考落ちという結果でした。理由はわかっています。統計的に精神障害者の定着率が悪いこと、突然来なくなるリスクが高いことがまず挙げられます。精神障害者を雇用することは義務ではないこと。更に、自分のキャリアが逆に就職を困難にしているということもありました。
障害者雇用で求められているのはスキルでも能力でもありません。若くて、文句を言わず、毎日来てくれる人なのです。
私は現在社労士であり、ダイバーシティを推し進めることも仕事の一つですが、現実はまだまだだと言わざるを得ません。障害者雇用を福祉ではなく、組織活性化として捉える企業も増えてきましたが少数です。
そんな中でも1社書類選考を通過し、面接にたどり着きました。誰もが知る大銀行です。何を聞かれたか、話したのか全く記憶がありませんが、契約社員として採用されました。
ものすごくうれしかったです。妻にすぐ電話をし「よかったね!」と少しだけ奮発した夕食にしました。
仕事内容は、簡単なExcelファイルの作成、書類の整理、郵便物の管理などでした。プライドが傷つかなかったのか、と言われれば嘘になります。
製薬企業の営業として大学を担当し、本社では100人以上の営業部隊の戦略立案をしたり、評価基準を確立したり、専門用語翻訳の際の用語統一プロジェクトのリーダーをしたり、英語での会議のファシリテーターを勤めたり・・・。
いろいろ思い出されて惨めではありました。ただ、それよりもなによりも働きたい、現実的に働かないと生活できないのでそんな思いは押し込めました。障害年金だけでは生活できないのです。
こうしてせっかく手に入れた職ですが、すぐに暗雲が立ち込めます。入社1週間で、身体が動かなくなりました。朝起きられないもです。無理やりおきて、通勤して職場にたどり着く頃には、ほとんど体力を使い果たしぐったりしてしていました。
3週間目に出勤不能となり、4週目に退職しました。せっかく手に入れた職をたったの1ヶ月で失ってしまったのです。自分の身体に潜む「障害」に叩きのめされました。主治医が「就業禁止」を解かなかった理由は、こうなることはわかっていたからかもしれません。
それでも、諦めませんでした。事務職が無理なら外回りを、と思い、病気を隠して単発1ヶ月の外勤営業の仕事を始めました。全く同じように3週目でダウンし、責任者から罵声を浴びせられ退職しました。
会話が駄目なのなら、と百貨店の在庫整理をしたり、スーパーやドラッグストアの陳列をしたり、とチャレンジし続けましたが同じことの繰り返し。
「もう無理なのかな・・・」と、やっと無謀な行動をやめました。精神的にも身体的にもボロボロでした。
妻が「今はまだ早いから、いつかできるようになるから。それまで私がなんとかする」と言ってくれました。
在宅ワークとの出会い
そうして就職活動は一旦やめました。ただし生きることを、社会にかかわることを諦めたわけではありません。
何気なくインターネットニュースを見ていたら「アンケートに答えるだけで報酬が」みたいな広告を目にしました。昔からそういうサイトの存在は知っていて、その類のものなのかなと思いました。
とりあえずクリックしてみると「クラウドワークス」というサイトでした。知らなかったサイトです。いろいろ説明を読んでみると、アンケートのサイトというより、個人でWeb系の仕事やライターの仕事を受発注するのがメインのコンテンツだと理解しました。
Web系は分からないけど、記事は書けるかもしれない・・・。
そう思い、すぐ登録しました。とりあえず行ったのは広告にもあったアンケート案件。報酬は19円。2017年5月のことです。まだクラウドワークスのアカウントは残しているのでそこから記録を確認しました。
1ヶ月は10円単位の仕事で様子を見ました。怪しいサイトかもしれない、という疑いがまだあったので。きちんと報酬が支払われると確認したので、きちんとプロフィールを作り、ライターとして試験的に活動することにしました。
プロフィールにはリアルな社歴と業績を書きました。消費者金融、製薬企業、外資系ホテルという過去の仕事。社会保険労務士資格所有者であること。ただし病気については触れていません。
書けそうな記事を探してそこにトライアル応募する、というのがWebライターの一般的な流れです。トライアルに合格すれば定期的に記事を受注することができます。
一番発注が多いのは芸能系・エンタメ系の記事でした。全然わからないのでパス。そんな中、金融に関する記事のトライアル記事を2本執筆しました。それぞれ4000字程度の記事、トライアルで文字単価0.1円でした。
そのトライアルに合格し、その発注者が運営するサイトの記事執筆者となりました。文字単価は0.3円。個別に依頼されるのではなく、記事のタイトルと入れてほしい言葉(SEOワード)・おおよその文字数が設定されており、複数のライターが書きたい記事を押さえていくというスタイルです。
私が選んでいたのは「消費者金融」に関する記事。経験があるので書けると思ったからです。クレジットカードと違い、経験者の絶対数が少ないため競争率が低かったことも選んだ理由の一つでした。
10本くらい記事を書いたところで発注者から連絡があり「単価を上げるのでもう少し多く記事を書いてほしい。消費者金融以外のジャンルも調べて書いて貰えれば助かる」とのこと。
私が書いた記事は運営サイドの評判が良かったそうです。詳しい数字はわかりませんが、pvとか滞在時間とかが良かったのでしょう(あまりよくわかりません。
どうしようかな、としばらく考えました。1日2時間程度、好きな時間に仕事をする。わずかであっても報酬がいただけるというのは非常にうれしいことだしありがたいことでした。ただし、体調を崩してダウンすることが私が最も恐れていたことでした。
考えた末に、3時間程度に増やせば単純に記事数は1.5倍になるので、提案を受け入れました。文字単価は0.8円になりました。記事のジャンルを金融全般に拡げました。
さらに3ヶ月くらい続けていると、別の発注者から個別オファーが届きました。やはり金融系のサイトです。文字単価1.0円で記事を書いてほしいという依頼でした。
自宅で好きな時間にできそうな仕事だけをする、というのはそんなに負担ではないし、むしろ何もしないより精神衛生上良いのでは、感じ始めていました。その依頼も受け入れました。
2017年9月に、月の報酬が8万円を超えました。考えられなかった奇跡が起こったのです。自宅でライティングをしてお金を稼ぐというのは全く考えていなかったことだからです。その後、ランサーズという別のサービスにも登録し、そこからの発注も受けるようになりました。
個別オファーが次々と届き、文字単価の高い発注者が増えました。結果、受注した仕事の平均文字単価は約1.8円になりました。最初の0.1円から18倍に単価が上がったのです。1日に1万字くらいは書けるので、単純計算で日給1万8千円ということになります’(実際には手数料等が引かれます)。月収ベースで10万円を超えました。
もしかしたら、この職業で食べていけるかもしれない。今は自分で取材に行ったりすることはないけど、そんな仕事をいつかしてみたい、と思うようになりました。
就労移行支援事業所との出会い
そんな中、変わった仕事のオファーが届きました。精神障害者を支援するサイトを立ち上げるので、記事の作成を依頼したい、というものでした。プロフィールに、経験業種として製薬企業(産婦人科領域・精神神経領域の世界的シェアが高い企業)と書いていたので、それを見て依頼してきたのでしょう。
金融記事とは勝手が違いましたが、知識と経験があるのでそんなに苦労はなかったです。「世の中の役に立っている」という実感も持てたので、このサイトの記事を最優先に仕事をするようになりました。
そんな中、運命を変える記事依頼が届きます。「就労移行支援事業所」についての記事作成依頼でした。知らなかった内容です。障害者の社会復帰のためのリハビリテーションをし、再就職に結びつける施設です。
書き終えたとき思ったこと。「記事を書いている場合じゃない、自分がそこに通所しない。」
ただし通所するのもそれなりのお金はかかります。利用料(これは所得が低いので免除になるのは調べていました)・交通費・昼食代。
交通費と昼食代は頭の痛い問題でした。茨木市内にも就労移行支援事業所はありますが、電車に乗るという訓練ができません。私にとって電車にのるというのはものすごく大きなハードルだったので、茨木市内ではだめなのです。
大阪市内まで往復すると私鉄・地下鉄で約900円。昼食代は最低でも500円。計1400円×20日=28,000円は家計に負担が大きいのです。就労移行支援事業所に通所すれば、ライターの仕事はほとんどできなくなると思っていましたから。
精神疾患に特化している施設、というのも私がこだわった条件でした。身体障害・知的障害・精神障害・発達障害。一言に障害といっても特性が全く違うので、それらすべてを受け入れている施設では十分な効果は得られないと考えたからです。
ここでまた奇跡的な出会いがありました。交通費・昼食を負担してくれる、精神障害者専門の就労移行支援事業所を見つけたのです。「ここしかない」と思い、すぐに入所を決断しました。2018年9月のことでした。
それから心身ともに回復していったのは、私のことを少し知っている方ならご存知かと思いますので割愛します。簡単に結論を書きますと、障害者雇用は現実的に無理であり、自分にも合っていないと理解したので、社労士として独立したのです。
伝えたいこと
人生は山あり 谷ありだから面白いと言われます。自叙伝や講演でもそうだと思います。私の双極性障害の経緯は谷しかなく、決して面白いものではありません。独立開業して、山というよりやっと平地に立ったというところです。
今回、詳細に闘病内容をお伝えしたのは「だから私はすごい」と言いたかった訳ではもちろんありません。シンプルに「双極性障害の現実」の事例を公開したかっただけです。
「ひきこもって」何を考えていたのか、何をしていたのか、の事例です。過去と断絶しなければ障害者として生きていくことができないという、一般的な見解からはみ出した事例でもあります。今、私がなんとか社労士を続けれれるのは、発症以前の仕事経験が非常に大きく、発症後のもがいた経験も非常に大きいからです。
精神疾患でどれだけもがいても報われない人はたくさんいらっしゃると思います。家族の支えと運を味方につけた私の事例が、精神障害者やそれを支える方のなにかのヒントになれば幸いです。
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