藤井のつぶやき日記-ゴドーは来ない。それでもこの物語が希望に見える理由-

こころ社労士事務所の藤井です。
私がこころ社労士事務所に入社したのは2024年2月16日のこと。あっという間に2年が経ちました!
今までの特徴もなくこれといった変化もない日々から、目まぐるしく変化し続けた濃密な2年間だったように感じます。
それは転機を迎えたタイミングだからなのかもしれないし、
今のこの居場所では変わり続けることが当たり前の環境なのかもしれません。
「何かが起きる」ことは刺激的で日々に彩を与えてくれます。
モノクロだった日常が、カラフルに色づいていく今のこの過程はすごく楽しく、願わくばずっと続いてほしいものです。

一方で「何も起きない」ことが悪いことだとは思いません。
それだけ安定した地盤を築けているという証明にもなります。

さて、この「何かが起きる」や「何も起きない」について、考えることになったきっかけがあります。
実は先日、『ゴドーを待ちながら』という舞台を観劇しました。
すごく難しい作品で、観終わった後に色々調べたりChatGPTに聞いてみたりしながら
少し作品への解釈ができてきたので、一度この場をお借りしてまとめておこうと思います。

何も起こらないのに、こころをつかむ『ゴドーを待ちながら』

『ゴドーを待ちながら』はアイルランドの劇作家 サミュエル・ベケット の代表作です。

舞台は、荒れ地に一本の木。
登場人物は主に二人、ウラジーミルとエストラゴン。
彼らは“ゴドー”という人物を待っています。
しかしゴドーは、最後まで現れません。
大事件も、どんでん返しも、感動の解決もない。
それなのに、この作品は20世紀演劇の革命とまで言われています。
なぜなのでしょうか?

二人は“別人”か、“一人の分裂”か

ウラジーミルは理性的で、よく考え、昨日のことを覚えています。
エストラゴンは感覚的で、靴の痛みを気にし、すぐ忘れます。

この対比は「二人は一人の人間の内面を表しているのではないか?」という読み方ができます。

ウラジーミル=理性・意識
エストラゴン=身体・衝動

頭で考える自分と、疲れて動けない自分。
意味を求める自分と、もうどうでもいいと思う自分。

誰の中にもある“二つの声”が、舞台上で対話しているようにも見えます。

二人は何度も「別れよう」と言いますが、決して離れません。
それは、自分自身からは逃げられない、という寓話のようでもあります。

ラッキーは「理性の暴走」?

本作品を観ている中で、一番難しいけれど強烈に印象に残ったシーンがあります。
傲慢で支配的な地主であるポッツォの従者である、首にロープを巻き付けられたラッキーという男性はポッツォに命じられると延々と“考え”続けます。
神学、哲学、科学……言葉はどんどん加速し、やがて崩壊します。
これはただの”狂気”ではなく、「理性が限界を超えた姿」なのではないでしょうか。
もっとわかりやすくすると、「真面目に考え続けた結果、壊れてしまった存在」だと思えるのです。

意味を求め、説明し尽くそうとする。
でも世界は、完全には説明できない。
そのとき思考は、制御不能になる。

もしこの劇が一人の内面だとすれば、ラッキーは“考えすぎて壊れかけた自分”かもしれません。

不条理は悲劇?それとも喜劇?

この作品はしばしば「不条理演劇」と呼ばれます。
世界は意味を返してくれない。
それでも人間は意味を求める。
このズレが“不条理”です。
ではそれは悲劇なのでしょうか?

実は、作中の所々にベケットのユーモアがうかがえるのです。
靴のドタバタ、帽子の交換、同じ会話の繰り返し。
道化芝居のような古典的な笑いの要素がたくさんあります。
けれど最後に心が軽くなるわけでもない。
つまり、悲劇でも喜劇でもない。
そのあいだで揺れる感覚そのものが、この作品の本質なのだと思います。

なぜ「退屈」と「傑作」に分かれるのか

物語性に期待をしていると、この舞台は退屈に感じてしまうかもしれません。
何も起こらないから。
でも、「何も起こらないこと」を前提にそれを体験しに行くとすれば、見え方が変わってくると思います。

沈黙。間。繰り返し。

何かを待った経験がある人にほど、刺さる。
刺さらない人には、ただ動かない二人が映るのみ。

評価が割れるのは当然かもしれませんね。

刑務所でなぜ支持されたのか

1957年、この作品はアメリカのサン・クエンティン刑務所で上演され、大きな共感を得たそうです。
理由はシンプルです。
“待つ”ことが、彼らの日常だったから。
判決を待つ。
仮釈放を待つ。
一日が終わるのを待つ。
ゴドーが来ないことよりも、「待ち続ける感覚」のほうがリアルだったのだと思われます。

余談にはなりますが、私自身病院に数か月間入院していた経験があります。
入院中の生活はとてつもなく”待つ”時間があったように思います。
何をするにも時間が決まっていたので、ごはんの時間、お風呂の時間、作業の時間、面会の時間・・・
この経験があったからこそ、私自身も「待ち続ける感覚」は自分事として感じることができ、この作品の世界観に入り込むことができたのだと思います。

「待つ」と自由意志

二人は拘束されていません。
立ち去る自由はあるのですが、それでも動きません。
待つことは受動的に見えますが、実は「待つことを選び続けている」と見ることもできます。

行動すれば結果が出る。
結果が出れば責任が生まれる。
待つことで、可能性は凍結されます。
私たちも同じかもしれません。

「もう少し準備してから」「タイミングを待って」「完璧になってから」そう言って動かない。

待つことは安全で、「選ばない」という選択をしているのです。

それでも希望は消えていない

この作品は不条理演劇と呼ばれはするものの、絶望一色だとは思えませんでした。

第一幕で枯れ木だったのに、第二幕では木に葉がついています。
少年は「ゴドーは明日来る」と言います。
二人は小言を言い合いながらも離れません。

大きな救済は来ない。
でも、微かな変化はある。

ゴドーは来ない。
けれど、ウラジミールは来る。
エストラゴンも来る。

「今日もここに来ること」が。互いの存在を証明し、物語をほんの少し前に進める。
来ないゴドーよりも、その小さな継続があることが、この世界に残されている希望だと思いました。

あなたは何を待っていますか?

さて、長々と書いてきましたが『ゴドーを待ちながら』は、答えをくれる作品ではありません。

あなたは何を待っていますか?
それは本当に来ますか?
それでも待ちますか?

何も起こらない舞台の上で、実は一番動いているのは観客の心なのかもしれません。

退屈だと思うなら、それも正解。
傑作だと感じるなら、それも正解。

この作品は、自身の「待つ」という経験を映す鏡なのだと感じました。

とても難しい作品で、観終わって「ふおぉぉぉ・・・」とうまく言語化できない感情なのにとても印象に残る作品でした。
思考を少し整えた今、もう一度ちゃんと観劇したいと思っています。また再演の機会に巡り合えますように。

ゴドーが来るかどうかは分からなくても、待ちながら生きてきた時間そのものが、きっと私たちを前へ進めていると信じて・・・

藤井鞠奈

藤井鞠奈

趣味は舞台観劇と温泉巡りとドラえもんを愛でること。
好物は松風焼きとたこ焼き、そしてひじき。
担当ブログ記事「藤井のつぶやき日記」のテーマを日々探しながら、たまに読書したりお散歩したりとひとりでのんびりゆっくりする時間を大切にしています。
保有資格:日商簿記検定2級、給与計算実務能力検定1級、図書館司書資格

関連記事

RELATED POST

CALENDAR

2026年2月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
232425262728  
PAGE TOP
MENU
お問合せ

TEL:072-646-8954

(月 - 金 9:00 - 17:00)